尊敬申し上げる某師範とうな重を先日食べる機会が、先日あった。
楽しく飲んで食べているときに、ふと師範が
「うな丼と、鰻重の違いが解るか?」
と仰る。
一同、うーん。
まっ、常識的に考えれば、器の違いだの、鰻のサイズだの色々有るんだろが、含みのある聞き方をされているので、そう言うことではないだろうと察する。
「よく、わかりませんねぇ。」
浅薄な私ごときの頭では、こういうレベルの人間が考えていることは伺いしれない。
「箸で取り分けて口に寄せるまでの間合いの違いだよ。」
やはり、面白い事を仰るなと素直に感心する。
そりゃあ食べ物の食べ方なんて煩いことを言えば様々だろう。
でも、達人は、上手い鰻は、口まで運ぶ間合いで楽しむものだと仰るのだ。
だから、鰻は丼じゃなくて、重じゃなきゃダメなんだと。
「この感覚がわからないと、日本人じゃないんだなぁ。」
かつて、池波正太郎は天婦羅を食うときは親の仇の様に、出てきた側から、口にかっ込めと言っていたのを思い出す。
熱々の出来立てを無駄口叩いたり酒の当てなんかにせず一気に食べろと。
比べる訳ではないが、何か通じる物があるなと、素直に感心する。
要は、口までの間合いの話だ。
世界大会、全国大会と終わり、協会も一段落だが、海外勢と日本の空手のスタイルの違いは、きっと、この感覚の違いなんだなと今更ながら思う。
人との関係、物との付き合い方にしても、日本人は、この間合いと言うものを非常に気にする。
今時の言葉でいうなら、空気を読むということだろうか。
その心地よい間合いが取れる人間は、やはり信頼できると思えるし、付き合って行きたいと思うのであろう。
一方、天婦羅の様に、勝負するときは、一気に踏み込んで自分のものにする勇気も必要になる。
間合い感などと空手的には言うのだが。徒然考えてくと、人も空手も相変わらず、間合い感が悪いなぁと自省する。
今後は、鰻と言わず、せめてラーメン位は、熱々を一気に踏み込んで、すすりたいものだ。
もう一方、こちらも大名跡の御大の話だ。
心酔申し上げる師範が、先日、子供の組手を指導をされている際に、親の好意で空手を通わせて貰ってるうちは、基本をやれ。他のスタイルなんぞ考える必要はない。
好きなスタイルでやりたいなら、自分で稼いでからにしろ。と仰っていた。
思わず、稽古中に頬が緩んでしまったのだが、染々と至言だと思えた。
とかく私ごときの木っ端指導者は、ついついこの視点を見失いがちだ。
子供たちを指導していると、どうしても結果を与えてあげたいし、勝てなくとも手応えを感じさせて上げたいと焦るあまり、効率良く、自分のノウハウみたいなものに頼ってしまう。
本当はこうやらなければならないのだけど、この場合はこうしても良いよ。なんて口が滑る。
基本が落とし込めてない若年者にこれをやるのは、病気に打ち勝つ免疫力を高めるのではなく、薬物に頼って一時的に耐性を高めるのに等しい。
自分で稼いで空手をやるには、小学生から始めたとしても10年は係るだろう。
武道の道は険しいものだ。
まだまだ、指導者としても武道家としても半人前だなと、自戒する。
侘び茶の完成者の千利休の言葉に、当たり前の事が当たり前に出来るのなら、私があなたの弟子になると言ったような言葉がある。
出来て当たり前の事を、どういう状況に置いても心乱れず、振る舞うということが、いかに難しいかと言うことだ。
好きな道を進み、人並外れて上手く出来、結果を出してきた達人達の凄み。
それは、この辺りに秘密があるのかも知れない。
全く、偉い先生は、やはり偉いものだと。人生の機微に触れ、つくづく思う。
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