怪我と空手

物事には裏表があります。

怪我と空手にも同じような事が言えるなと反省しきりな事故がこないだありました。


前にも神社の御神体がなぜ鏡なのかということで、過去に触れたましたが、簡単に言うと、御神体の鏡は前で拝礼する者の姿を写し出し、願いを叶えてほしいと願うその気持ちは神様側も一緒なんですよと教えています。

つまるところ、神様が平穏と繁栄を祈っていて、その願いは参拝者が叶えてあげなくてはなりません。

皆がそう考えれば世界は平穏と繁栄に満ちた世界になりますよ。と、神様はそう教えているのだとか。


日本人は、世界の人々に比べると顔に凹凸が少なく、濃淡の薄い表情は何を考えているのか解らないと言われて久しのですが、裏を返して見れば相手を慮り表情を変えずに雰囲気を感じる事にかけてはお家芸と言っても良いくらい長けていると思ってます。


話が少し反れそうですが、今回は、空手と怪我を通して、空手で何を学び、何を考えていかなくてはならないかを少し話したいと思います。


空手は、柔・剣道に比べれば競技の性質上、大きな怪我が少ないと言われるますが、組技主体の柔道や、防具を着けて竹刀で打突を繰り出す剣道とは対人格技として本能的な恐怖心において雲泥の差があります。


この恐怖心と怪我が実に密接に絡み合ってるのは想像に難くないとおもいますが、先日、うちの道場の中学生女子が出稽古先で前歯を折る大怪我をしました。


その稽古内容は、素手の若い一般男性に、うちの道場の小・中学生を含む残り全員が自由組手で当たるという稽古でして、稽古の表向きの狙いは、自分より強そうな素手の若い男性相手に、挑む側が臆せず自在に攻防が繰り出せるかといった様な狙いでした。


手前味噌な言い方になりますが、僕等ベテラン?くらいになると、相手に合わせてやれるようになるし、自由組手でも、相手に合わせて、それほど固くならずに比較的楽しみながら攻防を繰り返せるのですけれども、馴れていない、というか自由組手というものが何の稽古なのか身体で理解が出来ていないと、相手側は非常に危険ですし、受けて立つ大人の方にも非常に厳しい圧力がかかります。


理想的な基立ち(受ける側)は、相手に打たせて自分は打たず。

相手が引くと思えば前に詰め、詰めて来れば引き。相手が打つときには打たせ、打ち終りや、打ち初め、気に急いて雑に詰めて来たとき等々、各種隙が出た処にポーンと一本献上つかまつり、上に意識が向いてるなぁと思えば足を掛け、下を意識し過ぎて居着いてるなぁと思えば顔をポーンとやる。

上手い人とやると、まぁ、楽しく動きながら自分の隙やら、欠点やらが良く解るので、おー、組手ってこういう事かと、感覚として学ぶことが出来て思わず膝をうちたくなる非常に効率的な稽古なのですけど、これが解ってない未熟な人が基立ちをやると大怪我につながりかねません。

つまり挑む側が挑まれる側と同等の技量、もしくはそれ以下だったり、 基立ち側の理解が不足していた場合です。

どちらかだけですと、挑む側がそれなりに対応出来るのですけど、事故はこれが複合される時に往々にして起きます。


受ける側の技量が不足していて、理解が乏しい。


実はこれ往々にして有り得るし、僕も基立ち側で、そういう経験をいくらでもしたことがあります。

受けて立てと言われたけれど相手に技量で及ばない。

どうやって組手をして良いかわからない。


こうなると、心中は穏やかならず。焦り、戸惑い、緊張と恥ずかしさで顔は紅潮し、心と身体がばらっばらになる。


挙げ句、コントロールもままならない、不十分で集中力を欠いたまま闇雲に出す自分の突き蹴りは単なる凶器と化し、受けきれない相手に大きなダメージを負わせる事になる。。。


そもそも空手道の自由組手ってなんぞや、とは長くなるので別の機会に置きますが、簡潔にいうと。


絶えず入れ替わる攻防のやりとりの中で、心をどう扱うのか。


これつきると思います。


組手をやってみるとわかりますが、ありとあらゆる負の要素が最終的には身体がばらっばらにしようとしやがります。(もっというと形競技なんてこれとしか戦っていません。)


古来より武道はここを鍛練する為に修行をしていると言っても過言ではないし、武道じゃなくったって、道が付く、例えば茶道とか華道とかも、それぞれの『形』を通じて心を制御する手法を学んでいることに関しては全く一緒です。

 

武道に戻すなら、例えば、幕末、幕府方を恐怖に陥れた薩摩示現流は、絶叫とも取れる渾身の気合いを出しながら恐怖心諸共に、一心不乱に相手に打ち込めと教え、生涯無敗の宮本武蔵は、まず心を真ん中におき、絶えず緩めときゃあ負けないよと教える。

一見、全く正反対の教えですけど、これも表裏一体。実は同じような事を言ってるなと、気付かれると思われるでしょう。


と、ここまで書いて一つ気付いた事があります。


基立ち側に立つようになって自分も久しいですが、過去には、基立ち側で余裕を持てた記憶が殆どありません。

と同時に、これが出来るようになってきて怪我も減りました。

つまるところ、この稽古も挑む側の稽古ではなく、受ける基立ち側の稽古なのではなかったのでしょうか。。。


日本的な中々含蓄のある稽古だと思います。


では、どうしたら上達するのか。


尊敬する師範に聞いたことがあります。

以上を踏まえて、どうすれば良いんでしょうか。

どういう心境で臨まれてますか?って。


沈思黙考。


いらっしゃい。どうぞ打ってください。って。思うね。

って仰っておりました。


なるほど。。

つまり、相手が小さかろうが大きかろうが、若かろうが年上だろうが。

まず受ける。これだけまず念頭に置いちゃえば、そんなに当たらないし。仮に受け損なって怪我をしたとしても人を傷付けるよりは、遥かに気持ちは楽だよねって。

上手くふるまいたい、強く見せたいが先にあるんじゃない。

人を自分の拳で傷つけない。自分の身は必ず守る覚悟を持つ。

空手が上達するのはそこから。

そういうのがやりたけれボクシングだの総合格闘技だのをやれば良い。


僕も怪我は多いです。。

大きいのから小さいのまで数え上げたら枚挙に暇がない。

でも、どれもこれも勲章だなんて思った事はないし、出来れば膝だって、歯だって顔面だって元通りになれるものならなってほしい。


そう感じるから相手には絶対に怪我を追わせたくはないし、傷つけたくはない。


自分には後悔している怪我があります。もちろん加害者です。


一つは、学生の頃、町道場に出稽古に行った先で、相手をしてくださっていた中年男性の膝を思いきり蹴ってしまい、皿を割ってしまった事。

もう一つは、皆が見ている前でいい気ににきなって組手をやっていて、上段を振り抜いてしまい頬骨を折った事。

こちらに関しては、目に当たってたら失明してもおかしくはなかったと思います。

全て自分の未熟さ故の事故です。


痛覚がない歯って気持ち悪いです。

ずーっと痺れているような顔面って馴れても気持ち悪いです。

少し動くとパンパンに膨れ上がる膝って歩くのも痛いです。

させた怪我もさせられた怪我も全部こまかく覚えています。

でも、でも。やってしまった方は、さらに気持ちが悪いです。

後味の悪さで、黒いオリが沈殿していくような。心が汚れていくような。


皆に言いたい。される側にもする側にもなるな。


空手は人を傷つけるどころか相手に致命の一撃を与えてもおかしくありません。

だからこそ、使わないで済むなら使うべきじゃない。

そして、最低限身を守れる技量を身に付けつけてください。コントロールしきった最強の矛と、絶対的な盾。


怪我は空手家の勲章って言い方をする人もいます。


そういう言い方が正しいとは全く思ってませんけど、少なくとも最低限その痛みを知ってる人って僕は思ってます。

そういう先生は、皆、優しくて強いし空手が大好きで、最低限自分の拳には責任を持ってる人達です。


そういう人間がやってるのが日本空手協会の空手だし、絶対に傷つけない。動いていても、どんなに全力で攻撃しても、ぎりっぎりでコントロールしきる。

これが協会空手の矜持だと思っています。

自分もまだまだ修行中。正直なところ、本当の正解なんてわかりません。

でも、これからも迷いながら、考えながら、痛い思いをしながら考えて行きたいと思います。