強いってなんだろう。

空手が強いという事はどういう事なのだろうか。


尺度はもちろん色々あって、試合で勝つとか、組手が強いとか、形が上手いとか。量り方は色々なのだろう。


先日、行われた文部科学大臣杯の団体戦で、メンバーを組んだときに、僕の采配が良ければ、もう一つ勝ってたという試合があった。


団体戦が面白いのは相対的なチーム力とか個人的な能力に、差や、ばらつきがあっても、それが即ち結果の差に顕れないというところにある。


簡単に言ってしまえば、パラーメーター的な何かだけでは、勝敗が計れないということた。


組手も、形も勝負というのは、技と技の比べあいだけではなく、審判の質だとか、相手との相性の良さとか、もっというと、普段の生活習慣だの、当日の体調だったりとか、結構、外的な要因が非常におおきい。


とここまで書いていて、全く別の事を書きたくなったので、大きく話を脱線させてみる。


日本空手協会は、生まれながらに持っている組織的な使命がある。

中山空手の普及・発展。

松濤館開祖、船越翁は、本土に空手を広める事に心血を注いだし、松濤館、中興の祖である我等が中山先生はその空手を効果的で天才的な組織運用と画期的なシステム構築によって、またたく間に世界へと空手を広めていき、今や最大の空手団体を作るに至った。


 当然ながら、拡大路線とは、急成長する大組織が求心力を保つために必要不可欠な要素でもある。

空手界でいえば近年の極真会の成長もそうであろうし、歴史的には旧ソビエト連邦だの、現代中国もあるいはそうかもしれない。

強い軍隊と拡大路線。

(じつは、これが非常にJKAを苦しめる事になっているのではと感じているが、これは又の機会に書きたいと思う。)

有能で絶対的な指導者の下、世界を席巻したJKA。

中山先生が数ある弟子たちの中から選りすぐった若く気概がある空手家を総本部指導員として心血注いで鍛え上げ、世界に送り出す。

その期待に応えて、あるものは、現地に偉大な足跡を残しつつ、その身を終生捧げ、あるものは、傍系として巨大な別団体の創始者となる。

いずれにせよ、松濤館中山空手の種を世界中にまきまくった。


少し、別の側面から見てみたい。

空手は日本の文化である。

これに異論を挟む人は殆どいないとは思う。

もちろん、琉球、沖縄も含めて当然、日本という解釈の上でである。

文化なんてものは、誰でも彼でも真似できる物ではないと僕は考えている。

文明の利器といわれる自動車、携帯電話だのネットだのは、やり方さえ覚えれば中学生だって使いこなせるし、ある一定の言語能力だの、理解力があれば、その仕組みなんぞこれっぽっちも知らなくとも小学生にだって使いこなすのは、可能だろう。


でも、文化となると話は違う。


それまでの慣習だの、民族的な背景、地政学的な環境みたいな、それこそ日本人だからこそ出来うるし、理解出来るものだったりするし、もっと言うと、日本人だからという理由だけでは出来なかったりもしてしまう。

例えば歌舞伎の世襲だったり、宮大工の徒弟制度だったりする。

様は、説明書をしっかり読めば明日から簡単に使えますって言うようなものではないということである。


尊敬する師の言葉を借りてしえば、こういうのも含めて、空手は誰にでも出来るものじゃない。ってなるのであろう。


そんな背景のなか、諸先人たちの血の滲むようなご努力のお陰で空手は、世界に野火のように拡がる。

結果、今や競技人口数千万とも言われ、オリンピック競技とまでなる。

ただ、文化なんてものは、当の日本人(私)だって手を焼いているのに、当たり前の様に裾野が広がれば、訳の解らないお寿司だの、味噌汁だのが、そこかしこと、出てくるもんだとは思う。。


結果的にというか、必然、もはや空手と呼べない、首を傾げたくなるような傍流をも数多作り出すことになってしまった。


それこそ、古流の伝統的沖縄空手などを志されている諸兄の中には目を背けたくなる方も少なくはないだろうとか、この辺りの話をしかけると、そもそも船越翁の空手だって、琉球空手から見たら!みたいな「やぶ蛇」を、引っ張り出しかねないので自重はする。


話を戻す。


ただ、日本人空手家の端くれに連なる者的な感覚からして、あくまで主観と言いつつ共感も得られるであろう範囲で、文化的な側面を持った伝統的な空手ではないよなぁ。と。ましてや統轄組織でもあるWKFの選手には謂わずもがなである。


それに比べると、JKAは世界的な組織がしっかりしてるので、海外の現地人監督がオリジナリティを持って、見たこと無い不思議な味噌汁を作っているケースは少ない。(と信じたい)とは思う。


だが、世界大会の男子団体組手のベルギー戦だの、男子個人戦決勝を動画で拝見する限り、あれに日本人だから勝てと言うのは、甚だ乱暴な話だと心底思う。


WKFも含めて、空手が強いってなんだろうと思う。


味噌汁には決まりがある。

和風出汁を張った暖かいお湯に味噌を溶いてあること。

それに何らかの具材が入ること。

これだけである。

味噌は好みによって何でも良いし、出汁だって、鰹だろうが、昆布だろうが何だって良い。

具に至っては無きゃないでも場合によってはありだ。

でも、もし、この出汁がコンソメだったら、どーなんだ?

味噌を溶いてりゃ味噌汁なのか?と。

ひょっとして、バターでも加えて、チーズかなんか入れて表面焼いたらどーだ?とか。

ウマイかもしれない。

でも、味噌汁では、きっとないんだよ。

もはや、別の料理。


つまり、空手対空手なら、この疑問も成立するかもしれないが、空手対空手の一部分だけを特化して競技化した何か。

だと、もはや異種格闘技に近いのではないですか?。

だって、絶対基本やってないですもの。

技に空手的な美しさが全く感じられないですもの。


協会空手は三位一体。

基本やって、形を打って、組手で当たり稽古を繰り返す。

そんな日本人選手がひたすらフットワークとミット稽古、もとい練習だけしている様な海外選手と試合するのである。

もちろん、それでも味噌汁大会なんだから、日本人が作った味噌汁で勝たねば為らぬ。と、やはり、言う人は言うだろう。

それでも勝つのが協会の代表選手だろ。と。


その意見も良く分かる。

だが、逆に考えてみてほしい、では、勝つためにはどうするかと。

競技の練習に特化した選手に勝つためには、競技に特化した稽古を効率的にこなす必要がある。

効率性を考えたら、三位一体も、美しさも、文化的な側面も全部削ぎ落として。

結果的に勝つのだけが目的ならば。と。


でも、そうなると、もはや協会空手ではないだろうと僕は思う。

味噌汁と、味噌が入ってるスープは断じて違うのだ。


色々、くだら無いことも言っているが、この状況下で個人戦は男子組手は落としたものの、残り男女とも団体組手含めて、金メダル。   

立派過ぎるほどの結果。

本当に素晴らしい。

ヨーロピアンスタイルに真っ向からクラッシックな一本勝負スタイル。

折れた右手でバカデカイ相手に逆上を打つ手には全く力が入って無かったけど、魂で打ってたのが伝わりました。それが味噌汁なんだって、膝をうった。


ヨーロピアンスタイルに勝つために連盟のトップ選手が基本、形を捨てて、ヨーロピアンスタイルに変更するって、もはや本末転倒じゃないですか?

逆に、それを率先して迎合することになってしまってるWKFの現状を見ていると、今回の日本代表の戦う姿勢というか、メッセージみたいなものが自ずと見えてくる。


一言、こう言ってるのだ。

「空手を舐めるな!!と。」



僕がお付き合いのあった華道の大家の先生が仰っていた。

基本と形を繰り返し体に落とし込むと、自由に花を活けてもノリを越えず、美しさと品がでる。

それが華になるんですよと。

逆に言うと、基本と形が技に出てこない活け花なんて、単なる花の集まりでしかないよ。と。


これもまた件の師範の受け売りなのだが、空手はお洒落に格好良くと仰る。

上手いことをいうと、聞いた当時は関心しきりだったのだが、辛く、キツい基本に裏打ちされた「形」をもつ組手には美しさが備わっている。

多少、ダーティな組手をやっても素人のそれとは全く違うのである。


さて、さて。

協会が世界チャンピオンの一角を明け渡した、今日。

この日が、組織としてまた強くなる切っ掛けにきっとなると僕は信じている。


研ぎ澄まされた繊細な出汁、それに厳然された味噌。

選手の個性という名の具材。

最高の味噌汁を飲ませてもらいました。

次回も見せて下さい。


日本代表選手のみなさま、本当に感動しましたよ。

お疲れさまでした。







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コメント: 1
  • #1

    永江真彦 (火曜日, 30 7月 2019 17:14)

    原先生

     ある国立大学教育学部の推薦入試に、小子(娘)が提出しようとした幻の自己推薦文です。もう8年くらい前になるでしょうか。
     ご笑納ください。

     「私は幼稚園年中から空手を習っていた。小学6年生の夏、宮城県のグランディ21にて行われた全国大会にて、久しぶりに会った秋田時代の竹馬の友に実力差を見せつけられ、雪辱を果たすために空手部の強い都内の私立中学をわざわざ受験勉強して入学し、空手漬けの日々を送った。
     そこで味わったのが、勝つための空手に対するジレンマであった。幼少より叩き込まれた突き蹴り受けの本質を捨て、道場の先生から一番肝要だと言われた形の意味を捨て、その中学ではあくまで「見栄え」に執着する形を打ち続けた。私はそれに倣った。仕方がない。本質に執着すればレギュラーから外される。
     空手が競技化し、さらにスポーツ化していく過程で、本質から遠ざかっている挙動は数多かった。組手では、試合形式が寸止めのため「手首の曲がった突き」や「どこで蹴っているか判らない蹴り」(曲がった手首に体重を乗せて突けば自分の手首が壊れるのはあきらか。足のどこで相手を蹴るかが明確でなければ、力を籠めるタイミングと部位を自ら意識することができない)が横行している。形では「とにかく大きく見せるための大袈裟で派手な動き」等々、明らかに挙動の意味を「敢えて」理解させない「体操」としての「空手」がはびこり始めている。
     空手をやっている身としては空手がメジャーになることは歓迎である。しかしそれにより空手が空手でなくなってしまうことを防ぐ術はないであろうか。
     既存の空手人口も少なくない、オリンピックには毎度採用候補となっている。平成24年度から武道(空手も含む)の義務教育化も始まった。多少の歪みは致し方ないにせよ、少なくとも空手がタッチゲームやダンスの類に堕ちないための施策が欲しい。
     武道と競技との出会い、武道とスポーツとの境界線、武道の教育材料としての資質、それぞれの研究を、私が育ちまた空手を始めた、第二の故郷である東北で、且つ「スポーツを社会や文化との関連でみる」貴学の〇〇研究室で研究してみたい。」

     ここから先は小生の雑感です。
     数年前にNHKで、インターハイで優勝した女子の組手選手が、進学した大学空手部で初めて巻き藁突きを体験。痛くて突けないシーンが放映されてました。
     「空手やってる」なんて恥ずかしくて広言できなくなりました。