形の気合がなぜ二回なのか・・。

 

秋深し隣は何をする人ぞ

芭蕉、最晩年の句。

これは、病床に伏してた彼が俳会を欠席した際に、名刺替わりと弟子に託した句といわれています。
誰でも一度は耳にした事があり、現代人の寂寥たる孤独を読み上げた芭蕉、渾身の名句。

ただ、僕なんぞは、生来の天の邪鬼で、一を聞いたら十屁理屈を並べてしまうようなあほうには、どうもすんなり、俳句が入ってきません。

例えば上の句の「秋深し」がなぜ深”し”(連体形)で句切るのだろう、深”し”とくば、次に”夜”、とか”闇”とか、名詞が来るもんではないのか、秋深”く”とすべきじゃないのかと芭蕉さんには、誠に大きなお世話な一文句をつけてから、当時、腹を壊して大事な句会(大人のお遊び)に参加できない芭蕉さんが、真面目な句会でシタリ顔で大層な俳句に興じてる旦那連中が、 これを読みあげて思わず顔を綻ばせてる様を想像して、ニヤニヤしながら、この句を詠んでる状況を考えたりすると、とても愉快になったりしてしまい、もはや、しんしんとした秋の夜の深みなどとは一切、感じらない。

そんな風に考えていると、長年痔ろうに悩まされながらも放浪癖が抜けきれなかった芭蕉さんなら、あくまで表現したかったのは寂寥ではなく、友人に対する当てつけとユーモアではなかったのかと真剣に考えてしまいます。


さてさて、振り返るわが身。夜毎、空手なわけです。
秋の夜もさほど深くはなく。隣人もまた、空手。
踊るあほうに見るあほう、おなじあほうなら空手をやった方が良いに決まっています。

そんな秋の夜の事。

稽古の最中、自分の廻りには、絶えず(といって差し支えがない)子供達に取り囲まれているのですが、面白いもので、なんというか子供たちなりに暗黙のルールがあるようで、先生に直接手を出し足を出すは、最下級生の特権であり、帯の色が変わると少しづつ遠巻きにせねばらなんと自制するようになります。

茶帯ともなれば、最前列は後輩に譲り、後方から一気に間隙を縫って、一足献上とばかりに、オス!蹴っても良いですか?と、僕に蹴りを飛ばす。
当然、返事も聞かずにびしっっ!。
なんせ並み居るちびっ子の隙を突くわけですから返事を聞く暇もない。
うむ。黙って蹴るより、はるかに良い。
礼儀をわきまえる様になって偉いっw。

その中のかつての取り巻きエースだった小6、T君(茶帯)からの突然の質問。


なぜ形の気合は2回だけなんですか?

・・・・絶句。
ん?ん???ずいぶんと難しいことを聞くね。
うーん。なんでなんだろう。
しどろもどろ。

という事で、今回はなぜ型に2回気合なのか?を考えていきます。
ただ質問が難しすぎるので、まず今回は、『気合い』とは何なのか。について考えてみましょう。

まずはウィキペディア。
次は辞書。
・・・・大したこと書いてません。
英語版ウィキに至っては審判にアピールするためって書いてあります。(^^;
こうなれば非常に長くなりそうですが、じっくり腰を据えて考えてみるしありません。頑張ってみます。
まず、古来、日本的な”道”文化というのは禅の思想に深く影響されています。
この禅という鎌倉時代というリアリズムの極致のような時代に道元という一人の宗教家によって洗練された仏教の思想。
ここをまず糸口にしてみます。

この禅の特徴というのは甚だ乱暴なまとめ方をしてしまえば、要は死生観の潔さと、強烈なリアリズムによって成り立っています。

これが当時、生死をかけて刀槍を振るった坂東武者を中心に受け入れられ鎌倉・室町時代以降、支配階級となる武家社会に急速に浸透していき、茶道・華道といた日本の”道”文化に充分な栄養を与えつつ江戸期を通じて熟成、花開いていきます。

そこで気合とは何かを、禅と武道という源流を探ってヒントを見つけたいと思いす。

まさに禅問答の様相。

禅問答と言えば、同年代の方々にはお馴染みの、ソモサン!!セッパ!!!!
このきめセリフに、ぽくぽくぽく・・、ちーん。
懐かしい、一休さん。
僕らの世代で一休と言えば、大手旅行サイトの事ではなく、さよちゃんや、しんえもんさん。ちょっと意地悪で小悪魔な桔梗屋のやよいさんになぜだかドキドキしたあの一休さんですよね。

元々は室町時代の禅僧です。
臨済宗の高僧で、名僧と言って良いのですが、非常に人間臭く、奇行癖がある怪僧ですw。
この禅問答というのは臨済宗の修行方法の一つで、この後でてくる道元さんとは別系統になります。

「花は桜木・・・」

聞いた事がありますかね?。
かつては明訓高校の岩鬼正美が、後にスラムダンクの桜木花道がこれを引用してました。
この言葉を残したのが一休さんこと、一休宗純。
ちなみに、花は桜木の後は、人は武士(当時は潔さの象徴)で、(女性の)小袖は紅葉で、桜は吉野って続きます。
名言なんて形式ばったものではなく、ただ自分の好きなものを並べただけですが、風来坊然とした一休さんの風体と、なんというか素朴な力強さとか、ばさらな当世気風みたいな物を感じてこの僕はこの言葉が大好きです。
ちなみに当時小5だった自分が親に誕生日プレゼントでねだった物が一休宗純の一代記。
分厚い装丁の文庫本だったそれは、頓智ものとは程遠い、小学生には唯々難解で宗教的な意味合いが強い伝記物。
1年一度の楽しみを大いにしくじってしまったと感じたのは良い思い出です。
つまらない話をしてしまいました。戻しましょう。

そっ、そもさんっ!。空手道の型、なぞ気合は二回となるや!!

まあ待って下さい。

「だいじょうぶ、しんぱいするな、なんとかなる!」

これも一休さんのお言葉。身に沁みます。疲れているときは特に。

まず、”気”とはなんでしょう。
気迫、気候、気分、気象、後ろにつくと空気、電気、陰気、殺気・・・。

気という漢字には、簡単にいうと「目には見えないけど必ず感じるなにか。」みたいな意味があります。

それが(侯ざし≈きざし)がつくと気候になるし、象(かたち、現象)になると気象。
目には見えないけど何かが迫ってくる感じがするのが気迫で、
陰を感じる暗いものを感じると陰気だし、殺意を向けられるのが殺気で、逆にあかるく暖かいと感じると陽気。
つまり、気合とは、目には見えないけど必ず感じる何かがあって、それが何かと合わさってる状態の事をさします。

その何かが、なんなのかを、考えてみます。

武道の合わせ言葉で良く聞くのが気・剣・体とか心・技・体でしょうか。知・徳・体っていうのもあります。

どれも武道が持つ深遠な哲学を表す各種表現ですが、要は同じような事をいってます。バランスの話とでもいうのでしょうか。

これを集約された言い方で剣(拳)禅一如って言います。

・・・・・拳(剣)と禅??

来ました”禅”です。

これは、あくまで私見なので考察もおおいに身勝手に振る舞いたいと思うのですが、古来日本の”道”文化に取り入られている禅の思想とは、おそらくですけど、只管打座(しかんだざ)・身心脱落(しんじんだつらく)が非常に大きい。

断っておきますが、これはあくまで僕の経験則ですので間違っていればもうしわけないです。
ただ、念のためネットで所論を散見しましたが”道”文化における禅が与えた影響の研究は数あれど、ここの域を出ているものはなさそうでした。
ですので、さらに源流を目指し、論を進めたいと思います。

さてさて、この”只管打座”と身心脱落”というのは曹洞宗の開祖、鎌倉時代に生まれた宗教家道元さんの言葉です。
この禅の中興の祖である天才道元さんは既存の禅仏教を明確に整理し革新的なリアリズムを持ち込みましたが、この人の思想に思いを馳せるには、鎌倉時代という空気を感じないと、その質感が想像できないと思いますので、論を焦らず、あえて支流に外れてみます。


この道元が生きた、鎌倉時代というのは非常に面白い時代で、関東の自作農集団が俺が作った米は俺のも物だとばかりに中央貴族に喧嘩を吹っ掛ける事で幕を開けます。
そもそも武士というのは中央の貴族階に、田畑の管理一切を委託されている自作農民の事を指すわけですが、どれだけ頑張っても収穫全部が自分たちの物にはならない。

これが戦国期まで続く。半農半武というんでしょうか。

例えば土佐の一両具足と言われる四国を席巻した戦闘集団も普段は農民で、お城から太鼓が聞こえると田畑の畔に刺してあった槍を担いで馬に飛び乗り城中に駆けつる。
今でも土佐の人には、俺は一両具足の末裔じゃきって言う方いますよね。

甲斐の武田も、小田原の北条も戦国大名はどこも似たり寄ったりで、それが完全な戦闘集団として武士が成立するのには信長の出現を待たねばなりません。
とにもかくにも、クワと槍を持つ各地の大きな自作農集団が12世紀になると自分たちの権益を拡大するために立ち上がる。

まあ、搾取というほどではないにしても、この荘園制度というのは、社会制度に大停滞を世界中で引き起こす要因になってまして、日本の場合でも例外ではなく、逆に言うと、この支配階級が一方的に制度的搾取をする事により民主主義が発明され中世以降がなりたっていく訳です。

ここが日本史の不思議なのですが、この鎌倉幕府の成立というのは、欧米的な、例えばパリコミューンとか、ロシアのロマノフ王朝を倒す原動力的な民主主義とは別系統な、つまり思想的な意味での民主主義的なお題目があるわけではなく、自然発生的にというか、関東の草深い田舎の荒くれ農夫達が、単純に一所懸命と立ち上がる。
それが、結果的に一種の革命的な意味合を含んでしまっているという訳です。

ちなみに現在の中国はいまだここにいますね。
中世的な荘園制度、別に言い換えるならば儒教的な精神と租庸調、それに科挙制度が実は根底にある。
しかし、これは嘆くような事でも、卑下するような事でもありません。
あの巨大な版図と膨大な他民族集団を漢民族が国家として維持していく方法が現在のところ他に発明されていない訳ですから。
ちなみにもう一つ付け加えるなら、朝鮮半島は、実に、この割を食ってる形になりますね。
東方礼儀の国と言われた彼らも実のとろ、この中華思想に、やはり数千年浸かってた訳で、その戸惑いの中に現代もあるといって良いと思います。

ともかく、マルクスもレーニンも必要ない、自分たち漢民族が数千年かけて作った、極めて純度の高いアジア的な意味での社会主義国家(といって良いかどうか)として中華は存在している。
仮にそれを、社会主義国家だと、勝手によその国の人間が判断したとしても、まあ年季が違う。
これが欧米人にはどうしても理解出来ないんですね。

まあとにかく、この様に自作農どもがあちこちで好き勝手されるのが非常に厄介なので、貴族連中は、ある程度の権益を大きな
自作農集団に分け与え、時に反目させバランスを取り、上手になだめすかして大人しくさせることにする。
その代表的な自作農集団の頭目が源平ですね。
それを利用して婚姻外交やら、とにかく朝廷内部での権益拡大を図り、まがりなりにも武家政権を樹立したのが清盛であり、それを関東を中心とした自作農集団の旗頭として打ち倒して武家政権を樹立させたのが頼朝なわけです。

当時の関東平野は一面、葦やススキばかりの荒地です。
おまけに関東ローム層という土壌は、肥沃な割に粘土質で水にさらされると汚泥にまみれやすく、乾くと非常に堅い地盤になってしまい、まあ、水田には向かない。

梅雨時には地面は荒れるし、乾燥する秋冬などは一面の土煙が立ち込める。
家康が秀吉との政争に負け江戸に入府し江戸を首都として彼が整備するまでは荒れていました。
その水田には全く向かない場所を土埃にまみれた粗野な坂東武者たちが、一族郎党挙げて一所懸命耕す。
それが、そのうち爆発し、自作農集団が荒野を切り開いて作った米は自分立の物だと所有権を主張する。
これが頼朝に天下を取らせることになる。
これ以上のリアルはないわけですね。

この空気の中に現代日本に通じる思想・文化が芽生え始めます。
それまでのシンボリックで抽象的な文化は影を潜める。
令和の世もそうですね。バブル期という昭和後期の経済的に繁栄している時代には退廃的でシンボリックな物が流行ります。
糸井重里さんはじめ、コピーライターなんてのが目について、楽しくなければテレビじゃない、とか、くうねるあそぶとか。
夏は波の数だけ抱きしめちゃうし、冬になれば私はスキーに連れてかれるし、クリスマスには恋人がサンタクロースになっちゃ
う。いまじゃ考えられないw
子供たちは子供たちで、今日も元気にドカンを履いたらリーゼントなわけです。

逆に貨幣経済が一定のリアリズムを持つと文化的にも現実的なものが流行る。
一万円は一万円として、どれだけ価値がある使い方がされるのかが問題にされ、かっこいいや、かわいいではなく、
どれだけ値打ちがあるのかという一種の情報が最優先されるようになる。

社会では自己責任とか、能力主義、公より個、なんというか無味乾燥した言葉が出回るし、何となく誰もが閉塞感を感じる。

この現象は、歴史で度々登場します。
平安ー鎌倉もそうだし、近くではバブルとバブル後。
元禄文化と化政文化なんていうのもこの範疇です。
鎌倉時代というのは、江戸期の化政文化なんかと同様、ある意味、現代に通じるところが大きい。
不思議なもんでこういう時代になると、日本的な何かみたいなものに対して、日本人は必ず敏感になっちゃう。
ポストモダンなんて言い方をされた時代が過去となった今の日本人には理解できるのではないでしょうか。
鎌倉時代というのは、日蓮が提唱した末法思想なんていうのに代表されるように、慢性的な社会不安に苛まれている時代です。

ですから、いざ鎌倉なんて言葉がありますけど、鎌倉時代はあくまで一族郎党が主であり。個の基本単位です。
その様な社会情勢なので、実朝が八幡宮の階段で暗殺されても物騒な事にはならない。
どのみち鎌倉幕府は調停機関でしかありませんから。
だれか力がある家が顔役になってくれればいいわけです。
滅私奉公も、いざ鎌倉も、なんのスローガンになっていない。

さてこういう機運のなかで、運慶・快慶でおなじみの仏像なんかも創作されていくわけです。
憤怒の形相を浮かべている仁王像をはじめめ、頼朝さんや道元さんもそうですが人物画もより写実的になる。

巷でもそうです、曇天の中、雪がちらちらと舞い降りる様をながめては、世の儚さを情感込めて歌うなんてのは、流行りません。
血なまぐさく無常感が強い、ドキュメンタリーなノンフィクション軍記物だの絵巻物なんかが大流行する。

一部の清々しい日本人に今も残る”名こそ惜しけれ。”という精神。この言葉もこの時代のものですね。
これは恥ずかしい事をするな、潔くあれ。という意味なんですが、この名こそ惜しけれが日本人は非常に大好きですね。

会社に不正が合ったらトップが揃って頭を下げて退任するとか、もっと言うと、巷を賑わせている芸能ニュースなんぞはこれの顕著な例でしょう。
離婚だ浮気だと騒がれると、大向こうを前に深々と陳謝する。
最近だと、コロナに感染してすいませんとか・・・・。
なんで世間に対して謝るのか僕なんぞには不思議で仕方がないんですが、要は、そんな事をして恥ずかしくないのか!ってことなんでしょう。
自分の名誉を汚したのだから謝るのが潔さだって考える。

ただ本来の潔さとは、これとは多少違います。
なんというか目的と手段が入れ替わってしまっている。
本来の潔さとは、進退だとか、責任の取り方を現すものではありません。
道元さん的に言わせれば、あるがままでありなさいよ、じたばたしなさんなという事です。
行動規範、とでもいうのでしょうか。
彼の有名な言葉で、薪は薪、灰は灰って言葉が残されています。
薪から木は生まれるけど、灰から薪は生まれないって意味らしいです。
変質はするのだけど、自分でどうなるもんでもない。薪はどうやっても木には戻れない。
もっと言えば灰に替われるとしても、燃やされなければ薪は薪です。

日本的な”道”的な文化に継承されているのは、このあるがままの”潔さ”ですね。
赤穂浪士は亡君の仇として吉良を討つ。
その上で腹を切るときが来たらじたばたしても仕方がない、ただ、泰然と腹を切ればいい。
自分の死を受け入れる。
この潔さが、赤穂浪士の赤穂浪士たる所以だし、この潔さに江戸の庶民が喝采することになる。
なんだか現代の潔さとは、ひどく趣が変わっているように思えてなりません。
単なる責任論ではない。
一休さんが残した「人は武士」っていう言葉もの、こういう生き方をしている連中は大したもんだと思ったからでしょう。


さて、とにもかくにも、この空気感の中で、道元の禅がおこり、後に茶道・華道を初めとする現代日本に残る”道”文化に多大な影響を与えることになる。

こうして考えると、現代人がこの”道”文化を修行するのは、なんというか現代日本人としての民族的な憧憬あるいは懐古の象徴ではないかとさえ考えたりもします。


さあ、本流にもどりましょう。
禅についてです。
まず、禅は徹底的な様式美を内包しています。普段の立ち居振る舞いは言うに及ばず、食事一つとっても、厳しく、厳格な所作があります。
ただ、この所作の一つ一つに必ず理があり作法がある、これが厳粛な様式美を生む事になります。
この秩序だった所作が生み出す作法の様式美というのは非常に便利なもので、家康が大いに利用したという歴史があります。

例えば秀吉が作った大阪城では、風紀が著しく乱れてらしい。
なんせ政権樹立に功績を遺した武将の多くが濃尾平野の出自も良く分からない得体のしれない夜盗まがいの豪族集団で、それが秀吉の出世と共に偉くなる。
ですから、大身の大名といえども非常に素行が悪い。

太閤といえどもかつての同輩、そこかしこで秀吉の悪口を言いながら、だみ声あげて酒を飲んでは、城中いたるところで庭先で裾をまくり上げて、用を足すわけです。
だから大阪城内は絶えずアンモニア臭がする。
これには行儀にうるさい上方の大名連中も閉口したんですが、豊臣恩顧は古参が多い。
秀吉の晩年近侍していた近江・上方衆は、それこそ秀吉が織田家中でも大々名クラスになってから召し抱えている武将が多いので名家が多いわけなんですが。
まあ、だから言えなかったんでしょうね、古参の荒くれには。
これには石田三成もほとほと手を焼いたという書簡が残っている。
なんせ当の秀吉本人が強く言えないんですから始末に負えない。

結局、この素行が悪い立小便派の豊臣恩顧の大名連中が最終的に東軍にこぞって加担する事になる。
これを考えると三河という草深い山間の田舎豪族だった家康が彼らを取り込むために立小便の一つもやったかもしれないと考えると、やはり家康には油断ならない人物というだけでなく、どことなく背中を凍てつかせるような薄暗さを感じるし、一方、両派閥を御して天下を奪取した人を惹きつける秀吉の明るさと人心掌握術は大したものだと思うわけです。
この家康が、江戸に開府する際、まず目を付けたのが、所作作法、要は儀礼です。
典礼方を設け城中における全ての所作を、道元よろしく律と呼べるような水準の形式的作法に作り替える事でした。
当たり前ですが天下をとった家康には立小便する理由がありません。大事なのは諸侯を屈服させる威厳です。
これを得るため家康は儀礼を取り入れた。大阪城では許されていたでしょうが、江戸城松の廊下で刃傷に及べば当然切腹となる。
以降、見事なもので、城中は大変威儀がある形式美に満ちていたそうです。

蛇足ながら、この城中の典礼・儀式を取り仕切っていたのは、高家と言われる旗で、小身ですが非常に絶大な権力があったそうです。
どんな大身の大名でも高家に嫌われると城中田舎者よ、無教養な野蛮人よと笑いものなる。
この高家の有名人が吉良上野介であり、馬鹿にされて逆上したのが浅野内匠頭。赤穂浪士となります。

長くなりました。

つまりこの所作・作法というのは非常に重要で、道元さんが提唱した作法の様式美が”道”文化の大事な基本であり果ては城中の立小便や飲酒を禁止させ、潔さを伴った赤穂浪士が泉岳寺で見事、腹を召すことになるわけです。

道元さんが説いた”行住座臥・身心脱落”とは様々な所作・作法をあるがままに、ひたすら無心で座禅を組みなさいよ。
という禅の基本思想です。


ここまで迂遠な言い回しになってしまいましたけど、武道だけではなく各種の”道”文化が目指したのは誤解をおそれずに言い切れば、潔さ・作法・習慣、それが生みだす様式美ではないかと思います。

これが”道”文化においては、”型”(かた)という象(かたち)で文化的に集約されている。

拳禅一如とは、つまるところ型を打つ時の注意点というか道元さんの教えの別解釈ではないかと。
目指すものは人格完成であるならば、所作・作法を大事にし、あるがままの自分を受け入れ、無心で、ひたすら型を反復しなさいと。

これが、気と合わせる”禅”の正体かもしれないと考えるのが自然ではないでしょうか。
つまり気合とは”道”文化特有のものですけど、目に見えない何かと、潔さ・作法・無心が合えば声は出す必要がない。

ちなみに華道の大家は気合は込めるものと聞いた事があります。
気合を込めろ!って先輩、先生から聞きますよね。確かに。
この場合の気合が、今、お話している気合と同類な気がします。


さて、何となく気合の正体が見えてきたところで、次は、なぜ気合に声を出すという行為が武道にとっては必要なのかを考えてみましょう。
まず、身体操作にとって声を出す行為が、ある程度の効果を発揮するというのは、ご自身でも経験上、理解されていると思います。

例えば、お化け屋敷で、思わず恐怖に声を上げると、すくんでいた身体がとっさに反応するだとか、同じ笑うでも、ガっハっハっと声を出して笑うと、さらにHAPPY、気分爽快になるとか。
このように喜怒哀楽に声を合わせると、不思議な物で、どういう感情でも、事後、なんだかすっきりします。
おそらくセラピーとか、心療内科とかの分野の研究論文とか関連図書を読めばさらに詳しく分かると思いますが、ここでは流石に割愛しますw。

つまり身体操作に合わせて声を出すという行為は、”感情”に合わせると、身体的のみならず心因的にも効果がある。

ここで具体的なデータを一つ紹介します。
前にどこかで読んだ覚えがある、確か日本大学の学術論文だと記憶してますが、同大空手道部員に発声状態で突きを出した状態と無声状態での突きの運動エネルギーを計測したところ10~30%声を出した方が測定値が高くなったという研究論文を読んだことがあります。
つまり身体操作に単純に声を出すという行為でも効果がある。

これは、遠投とかハンマー投げ、重量上げなんかも一緒です。
スポーツとして記録促進に十分効果がある。

なるほど。ここで得心がいきました。

まず、身体操作にあわせ声を出す事で運動能力を増幅させる効果がある。
それと声は感情にあわせ発生することで心因的にも効果がある。
おそらく。というかあくまで私見ですが武道の気合とはこの2つを併せたものを指すのではないでしょうか。

禅の潔さ、無心、所作。つまり形稽古です。

禅の意識下で形を反復するという事は、無声状態の気合が絶えず入っている状態だと言えます。
続きます。